こんにちは、大坪勇二です。ここでは私が知り合った「すごい仕事をしている人」「妙に仕事ができる人」「妙に物事が上手くいく人」をピックアップしてインタビューしています。
今回インタビューしたのは、ライター業、海外不動産事業、コンサルティング業等、実にさまざまなビジネスを縦横無尽に駆け回る中島宏明氏。このオウンドメディア「スト☆スマ」でも執筆者として活躍しています。若くして(30代半ば)多くのスキルと成功を手にし、自由な生き方を実現させた中島氏の「妙に物事が上手くいく」秘密を聞いてみました。
中島宏明
2012年より大手人材会社のアウトソーシングプロジェクトに参加。プロジェクトが軌道に乗ったことから2014年に独立し、その後は主にフリーランスとして活動中。
2014年、一時インドネシア・バリ島へ移住し、その前後から仮想通貨投資、不動産投資、事業投資を始める。現在は、複数の会社の顧問・経営戦略チームの一員を務めるほか、バリ島ではアパート開発と運営を行っている。
マイナビニュースでは、仮想通貨に関する記事を連載中。
https://news.mynavi.jp/series/cryptocurrency
大坪:簡単に自己紹介していただけますか。
中島:中島宏明と申します。今、毎週「マイナビニュース」さんに仮想通貨に関する基礎的な知識についての連載をしていいます。それからインドネシアのバリ島で不動産事業を展開しています。アパートなんですが、去年の夏に完成してずっと満室です。またデベロッパー事業をインドネシアでも進めています。
大坪:普通、日本人が直接関わる海外の不動産投資においては、不動産の開発のようなものは遅れて当たり前、立ち消えになることも少なくないですよね。
中島:そうですね。ほとんど完成しない(笑)
大坪:ところが僕は実際にバリ島に行ってこの目で見たんですけど、ちゃんと完成もしているし客付けもしているし。かつ、工期が1カ月、後ろ倒しじゃなくて前倒しになった。
中島:そうですね、本当はもう1カ月早くてもよかったんですけど。ちょっとこちらの送金が遅れてしまったことがあったので。
大坪:それじゃなかったら、もっと早かった?
中島:1カ月ぐらい早かったかもしれない。
大坪:それって極めて珍しいとことですよね。本当に心からびっくりした。「このビジネスをしている中島さんってどういう人なんだろう?」と思ったんです。仮想通貨をテーマにした執筆をされたり、決して不動産投資の専門家でもない。
中島:全く(専門家では)ないですね。
大坪:いったいどんなバックグラウンドなんだろうって……。そうそう、しかも大学で「美術史」を教えていたんですよね?
中島:大学(早稲田大学文学部)では美術史と映画史もやっていました。映画をつくったり……。あとはメディアアート、現代アートといわれているような、新しいテクノロジーを活用したアート作品みたいなのをつくったり。あとは情報リテラシー、メディア概論みたいなものもやっていました。
大坪:それでご縁があって大学に残られて、大学の教授の補助、アシスタントになって、一部講座も受け持っていらっしゃった、と。
中島:そうですね、ポール・セザンヌを研究対象にしていたので、セザンヌ論などの授業をちょっとやっていた。
大坪:その時点でまったく分からない世界なんですけど(笑)。それがどうして不動産投資のような「実務の塊」みたいなことに移行したのか?
中島:そうですね……まず大学が「実学」を教えることにシフトしていったんです。どちらかというと、美術史とかって「虚学」なので。
大坪:それが世の流れかもしれませんね。
中島:美術史に詳しくても、あんまり就活とかに有利にならないじゃないですか。
大坪:直接食えるか食えないかというとそうですね。
中島:で、自分が担当していたもの、アシスタントとして担当していたものもなくなってきたので「じゃあ大学出てみようかな」って。
大坪:「学者になる」というルートにはあんまり固執しなかったんですか?
中島:大学教授は70歳が定年なんですけど、そこまで働くイメージはあんまり湧いてなかったので、ずっといるよりは早く飛び出ちゃった方がいいかなって感じでしたね。
大坪:大学を飛び出して、それで投資の世界ですか?
中島:いやいや、最初はリクルートとかの求人広告の代理店にライターとして入ったんですけど、実際はライター業以外にも、テレアポをやったり、営業同行したり……。
大坪:半分営業みたいな仕事?
中島:そうです。毎日200~300件コールしてガチャ切りされてました。代理店でしたけど、ベンチャーという感じのところだったので「職種に拘らずなんでもやるよ」という雰囲気ではありましたね。
大坪:その後で人材系のメディアへ?
中島:そうですね。求人広告誌でのアウトソーシングプロジェクトです。主にディレクターとかデザイナーを育成するのがメインの仕事。下請けの会社の事業責任者だったので、採用もするし教育もするし。従量制で、つくった分しか売上にならないので、プレイングマネジャーとして自分でも制作をするし。
大坪:子会社の事業責任者ね。
中島:たぶんそこで、資金調達以外……ある程度経営の基礎的なことはできたかなと。
大坪:売上があってコストがあって、収支も含めたところで責任を持って。
中島:そうです。毎月役員に数字を報告して。毎月ずれちゃうんで、「またずれてんな」とか言われながらやってましたね。
大坪:……ずいぶん学問の世界、芸術の世界から違うところに来た感じがありますけど。
中島:たしかに大学でやっていたこととは違うことだったんですけど、チャレンジブルな性格ではあったので。新しいこと、やったことがないこと、経験がないことに対してトライしていく、みたいなことは抵抗感なくやっていました。「まあこういうもんだ」と思って。事業責任者という肩書き、ミッションをある意味与えられていると思っていたので、愚直にやっていました。
大坪:なるほど。でも、忙しくて大変だったでしょう?
中島:求人広告の世界は繁閑差が激しいんです。例えば2月~3月が忙しくて、あとはわりと暇という感じ。当時は契約社員を何人か、一番多いときで40人ぐらい雇っていて。
大坪:40人に給与を払うとなると大変ですね。
中島:そうですね。忙しいときは胃が痛くなる、血尿が出るってくらい。
大坪:本当に出たの!? 血尿。
中島:本当に出ました(笑)。「来月、大丈夫かな」っていう不安が常にあって。資金は親会社が出してくれて、別に銀行と交渉をしたりとかはなかったので、そのストレスはなかったんですけど。でも〝生真面目〟な時だったというか……真面目に責任を感じてやっていました。
大坪:当時一番怖いこと、不安なことは何でしたか?
中島:一番は「人が辞めていく」ということ。みんないい感じに育ってくれた頃に辞めていく。「人材輩出企業」っぽくなってましたね。一番象徴的だったのは「ちょっと前までエアコンの掃除してました」って人が入社して、半年か1年くらいいたんですけど……その後、博報堂に行きました。
大坪:(笑)ビジネススクール化していたわけですね。「ええ!? 堪忍してよ」ですね。
中島:「いや、俺も辞めたいよ」みたいな感じでした。
大坪:そういう感じで中島さん自身はずっと踏ん張ったんですね。
中島:そうですね。それで、会社が黒字化する目処すら立ってない時に、妻から「いずれバリ島に住みたい」というリクエストがあって。ただ、全然黒字になる気配すら感じてなかった。必死に「どうやったらなるかな」っていうのを考えて、「一番人件費がきついところを変動費化すればいいじゃん」と思ったんです。で、在宅の主婦の方とか、介護離職された方、50代ぐらいの男性の方とかを何人か原稿を書くライターとしてピックアップしました。最初はちょっと品質的に難しかったんですけど、半年ぐらいしたら安心して任せられるようになってきましたね。
大坪:その品質を安定させるためのコツってなんだったんですか?
中島:ひたすら(原稿に)赤入れ(=修正)する。
大坪:フィードバックか。
中島:でもなんとなく人間関係ができてからじゃないとフィードバックがしづらいので、最初の1週間ぐらいは会社に来てもらって直接やってました。
大坪:ひたすら赤入れを繰り返していくことで、その結果、安定したと。
中島:そうですね、ひたすら。もう、個別指導ですね。
大坪:それは中島さんが直接?
中島:ほぼやっていました。もちろん僕の部下の方もやってましたけど。それまでは原稿をつくるところから顧客確認まで全部1人のディレクターがやるという状態だったんですけど、そこを分けた。「書く」っていう作業と「顧客確認」という作業を分けた。基本的に社内の人間は顧客確認に専念する。
大坪:顧客確認っていうのは、「これでいいでしょうか」って擦り合わせる仕事?
中島:ときには営業と擦り合わせる。もちろん修正とかも必要になるので、ある程度書くスキルは必要なんですけど。
大坪:分けることによって、その分アウトソースすることが可能になった?
中島:そういうことです。あとはたとえば「夜中に作業したい」っていう人もいるので、帰る前に発注したら翌朝には仕上がっているといった利便性もありました。
大坪:その「変動費化」が黒字化の大きな理由だったわけですね。
さあ、見事に会社を黒字化させた中島さん、いよいよ「バリ島」での活躍が始まります。
次回もビジネスのヒントが満載! お見逃しなく!
1964年 長崎県生まれ
九州大学卒
コンテンツプロデューサー
「稼ぐプロを作るプロ」
大企業新日鉄の経理マンに飽き、ソニー生命の歩合営業マンに転身するも2年間ダメで貯金が底をつき、身重の妻と月11万円の住宅ローンを抱えて、手取り月収が1,655円とドン底の時にやる気スイッチオン。
6ヶ月間の「大量行動」で富裕層とのパイプが開け法人超大型契約で手取り月収が1,850万円に。現役11年間で累計323億円の金融商品を一人で販売。
その後、「社会の問題を、仕事のプロを育てることで解決する」をモットーに出版社を設立。現在に至る。障がい者福祉事業、複数の社団法人オーナーでもある。
著書に『手取り1655円が1850万円になった営業マンが明かす月収1万倍仕事術』(ダイヤモンド社)『月収1850万円を稼いだ勉強法 ~伝説の営業マンはどう学び何を実践したのか~』(祥伝社)などがある。